「プレイ・ファースト!」
白洲次郎は戦後、時の首相吉田茂に請われて
現在の日本の原型をつくった人として知られる。
17歳で英国・ケンブリッジ大学へ留学。
不良で日本を放逐され、邦人の弁によれば『島流し』に遭い、
多感な時代をイギリスで過ごす。
愛車ベントレーで終生の友となる伯爵と、
ジブラルタルを目指す欧州大陸横断などを決行し、
オイリー・ボーイとして鳴らしたという。
このイギリスで過ごした経験を生かし、
占領国米国GHQを相手に、対等な交渉をする、
タフ・エゴシネーターぶりを発揮。日本国憲法の
誕生に立ち合うことになった。
ゴルフは14歳のときに3ヶ月だけやり、
英国留学時代はやらなかったという。
理由は「モテないから」。
本格的にやり始めたのは28歳から。
ハンディ2までなっている。
そして50歳の時、軽井沢ゴルフ倶楽部の理事に、
74歳で常任理事に就任。
この時、倶楽部方針の第一義に掲げたのが、
この「PLAY FAST」だった。
ビジターを制限し、メンバーはみな平等、が
口癖でマナーを徹底させた。
コースの夕暮れ、18番ホールを見下ろす椅子に腰かけ、
スロープレーヤーを見かけると、どんな偉い人にでも
面と向かって注意したという。
白洲はプリンシプル(原則)を主義としたが、
このプレイ・ファーストにはゴルフのそれが貫かれているのである。
■白洲次郎
しらす・じろう/1902〜1985。
1902年、兵庫県芦屋の大富豪の家系に生まれる。
17歳で英国ケンブリッジ大学へ留学。
家業倒産のため26歳で帰国。35歳で近衛文麿内閣の
政策ブレーンをつとめたが、38歳で鶴川村へ
「武相荘」を建て、農業をやるといって隠棲する。
43歳で吉田茂に請われ「終戦連絡中央委員会」参与に
就任。GHQと憲法制定を巡って渡り合う。
46歳、初代貿易庁長官に就任、通産省誕生の
立役者となる。
その後東北電力会長となり、電力再編の分割民営化に取り組む。
50歳、軽井沢ゴルフ倶楽部理事、74歳で常任理事、
80歳で理事長に。
85歳で死去。遺言は「葬式無用 戒名不用」。
夫人は作家・随筆家の故白洲正子。